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市川 團之助 (六代目)

いちかわ だんのすけ
本名羽田容造
俳名・舞踊名俳名は三紅、三好
屋号三河屋
定紋三升の中結かしわ、三筋結びかしわ
生没年月日 明治09(1876)年07月01日 ~ 昭和38(1963)年09月27日

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プロフィール

中芝居を転々としていたときは実に多くの役を手がけ、『曾我の対面』の五郎、『大盃』の馬場三郎兵衛、『丸橋忠弥』などから、女形も多く務め、『野崎村』のお光、『八百屋お七』などをはじめ、『紅葉狩』や『戻橋』なども演じている。大歌舞伎に戻ってからは脇役で終始し、男女両方の老役、敵役で老練な演技を示した。芸歴の影響からか、舞台はときに小芝居臭と非難されたが、達者なことには定評があり、中でも『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』「帯屋」のおとせは代表的な当たり役。また、中村吉右衛門が『恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)』「封印切」の忠兵衛を演じるときは、八右衛門が持ち役だった。関西育ちで身についた上方味と大阪弁が役立ち、幹部俳優が演じる八右衛門とは違った、野卑な敵役を巧みにこなしたのである。

多くの師匠を持ち、多くの名優と一座したが、当人が強く影響を受け、印象にも残っていたのは、九代目市川團十郎に仕えた時代のことだった。三味線が得意だったので、師匠が下ざらえをするときや二人の娘(後の市川翠扇・旭梅)が稽古するときは必ず絃を弾いた。また、九代目が趣味の釣りに行くときは、供をするのが恒例で、親しく人柄に接していたという。

昭和37年4月、十一代目團十郎襲名が歌舞伎座で行われたとき、九代目門下唯一の生き残りとして『口上』に列席、また舞台生涯80年の表彰を受けている。そのあとインタビューに答え「團之助という立派な名を貰いながら大した役者になれなかったのを申しわけないと思っていたのに、これで少しは先祖の團之助に顔向けができた」と喜んでいた。それから1年後の他界だった。

【松井俊諭】

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経歴

芸歴:

父は市川升若。明治16年實川延若の門人であった實川芦鴈の養子となり、京都四条北座『三十三間堂』のみどり丸で實川芦丸を名乗り初舞台。明治19年養父と共に上京し中村座へ出勤。明治20年8月千歳座で養父が初代市川左團次門下に入り市川升若と改名したのを機に市川若松と改名。明治28年九代目市川團十郎に預けられる。明治30年正式に團十郎に入門し市川升三郎と改名。その後上方へ行き、市川市十郎一座や三代目中村歌六の一座などで修行したあと、大正4年11月新富座で六代目市川團之助を襲名、名題昇進。

受賞:

昭和35年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。同年勲四等瑞宝章。

☆「芦鴈」については「現代演劇総覧」(大正7年刊)その他、團之助(芦丸→若松→升三郎→團之助)については「演劇界」昭和24年6月号所載の渥美清太郎との対談記事に拠る。

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舞台写真 (写真をクリックすると拡大画像をご覧いただけます)

  • 『水天宮利生深川』
    (左)九代目市川八百蔵【代言人茂栗安蔵】、(右)六代目市川團之助【金貸因業金兵衛】

    昭和34年3月 明治座
  • 『摂州合邦辻』
    (左)六代目中村歌右衛門【玉手御前】、(右)六代目市川團之助【母おとく】
  • 『仮名手本忠臣蔵』六段目
    (左)六代目市川團之助【おかや】、(右)十七代目中村勘三郎【早野勘平】
  • 『恋飛脚大和往来』新口村
    六代目市川團之助【孫右衛門】

    昭和36年4月 芸術座(木の芽会)

  • (左)十七代目中村勘三郎【船津幸兵衛】、(右から二人目)三代目尾上鯉三郎【代言人茂栗安蔵】、(右)六代目市川團之助【金貸因業金兵衛】

    昭和37年11月 歌舞伎座
  • (左)三代目中村時蔵【玉手御前】、(中)六代目市川團之助【合邦女房おとく】、(右)八代目市川中車【合邦道心】

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