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市川 蝙蝠 (二代目)

いちかわ こうもり
本名吉田謹也
屋号澤瀉屋
定紋四ツ澤瀉
生没年月日 大正09(1920)年04月08日 ~ 昭和58(1983)年03月08日
出身東京都

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プロフィール

二代目市川小太夫の先妻の子供。戦前は大阪に赴き、父のもとで「新旧合同」の公演などで新作の舞台に多く立っていた。戦後は関西歌舞伎に所属し、大映京都撮影所に移り映画にも出ていた。しかし、映画が衰退してきて歌舞伎に戻るに際し、父の小太夫自体が歌舞伎から離れている時期が長かったので息子の面倒は見きれなかったこともあろうが、家庭内の事情で父親とは折り合いが悪かったため、伯父の八代目市川中車の預かりとなり、東宝劇団に所属した。従って古典よりも新しい芝居への出演が多かった。昭和51年1月9日に父小太夫が歿したのち、松竹に復帰し、三代目猿之助の一門となった。それを機に、昭和51年10月の新橋演舞場で、父小太夫が前名で名乗っていた市川蝙蝠を二代目として継いだ。小太夫の息子という立場にありながら、東京では役にはあまり恵まれず、『義経千本桜』鮓屋の梶原の臣、『裏表太閤記』の久吉の四天王、『俊寛』の丹左衛門の供侍のような家臣の役や世話物では手代などの役に甘んじていた。父に似た渋い風貌で、立役専門。大阪時代の『梶原平三誉石切』で演じた俣野五郎などに味わいがあった。文学青年で、静かに本を読んでいることが多かったが、海外旅行は好きだったそうだ。

【金森和子】

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経歴

芸歴:

昭和2年1月市川謹也を名乗り浅草松竹座『苅萱桑門筑紫■(かるかやどうしんつくしのいえづと、■はくるまへんに榮)』の石童丸で初舞台。戦前は父の許で主に関西歌舞伎に出演。戦後は関西歌舞伎、大映京都、東宝劇団を経て昭和21年より松竹所属。昭和47年5月伝統歌舞伎保存会会員の第二次認定を受ける。昭和51年より又従兄弟(またいとこ)にあたる三代目市川猿之助に迎えられて一門に所属。同年10月新橋演舞場『頼朝の死』の中野五郎、『雙生隅田川』の杣謹太で、父・市川小太夫の前名である市川蝙蝠を襲名。

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舞台写真 (写真をクリックすると拡大画像をご覧いただけます)

  • 『於染久松色讀販』お染の七役
    二代目市川蝙蝠【百姓久作】

    昭和49年8月 国立劇場(日桜会)
  • 『摂州合邦辻』
    (左)現・中村吉之丞【玉手御前】、(中)二代目中村吉弥【合邦女房おとく】、(右)二代目市川蝙蝠【合邦】

    昭和45年8月 国立劇場(東宝若手研究会)

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