坂田 藤十郎 (4代目) サカタ トウジュウロウ

本名
林宏太郎
俳名・舞踊名
舞踊名は藤間勘輔、初代雁音歌扇(かりがねかせん)
屋号
山城屋
定紋
五つ藤重ね星梅鉢
生没年月日
昭和6(1931)年12月31日〜令和2(2020)年11月12日
出身
京都市

プロフィール

1941(昭和16)年に二代目中村扇雀を名乗って初舞台を踏み、1949(昭和24)年に始まった関西若手俳優による関西実験劇場、いわゆる「武智歌舞伎」で気鋭の演出家武智鉄二の指導のもと当時の文楽、能楽、舞の名手に芸の基本を叩き込まれた。その成果が花開いたのが1953(昭和28)年に新橋演舞場で初演した近松門左衛門原作、宇野信夫脚色・演出『曾根崎心中』のお初であった。お初は男の陰で生きる従来の歌舞伎の女と違って、傷心の恋人徳兵衛を励ましリードし、自らの意志で死んでいく女で、そんなお初の人間像をイキの詰んだ台詞術と官能的な演技で表現し爆発的な「扇雀ブーム」を巻き起こした。お初は戦後の新時代の女性像を象徴していて「扇雀ブーム」は一個人の人気を超えた社会的広がりを持っていた。お初は生涯に1401回演じる当たり役になった。

 一躍スターになった扇雀は歌舞伎だけでなく、長谷川一夫の「東宝歌舞伎」のレギュラー、「コマ歌舞伎」の座頭(ざがしら)を勤め、東宝の現代劇にも出演した。1950年代から関西歌舞伎は長年に亘って低迷したが、扇雀は独りスターであり続けた。歌舞伎では父・二代目中村鴈治郎の相手役として『河庄』の小春、『封印切』『新口村』の梅川、『廓文章』の夕霧など上方和事の女方を演じた。30歳代後半になってからは『河庄』の治兵衛、『封印切』の忠兵衛、『廓文章』の伊左衛門など家の芸の和事をはじめ『沼津』の十兵衛、『引窓』の与兵衛、『宿無団七』の団七など上方狂言の立役にも芸域を広げ、一方で『忠臣蔵』のおかる、『熊谷陣屋』の相模、『寺子屋』の千代など義太夫狂言の立女方(たておやま)にも挑んでいった。

 1982(昭和57)年に近松門左衛門の作品を歌舞伎として上演するための「近松座」を旗揚げした。近松作品を世界に紹介すること、近松の人間ドラマを現代に再生することを目指した演劇運動で、同時に近松と組んで元禄上方歌舞伎を大成した初代坂田藤十郎の芸を探りたいという思いもあった。『心中天網島』『女殺油地獄』『冥途の飛脚』など世話物を原作に戻して上演し、『嫗山姥(こもちやまんば)』『雙生隅田川(ふたごすみだがわ)』『出世景清』などの時代物、さらに近松が初代藤十郎に書いた『けいせい仏の原』『けいせい壬生大念仏』などの歌舞伎狂言の復活上演などを試みた。「近松座」は以後30年間に亘って続き、改作も含め18の近松作品を上演し、2001(平成13)年のイギリス公演をはじめロシア、韓国、アメリカ、中国でも公演した。1990(平成2)年に三代目鴈治郎を襲名したが、翌年に三代目實川延若が亡くなったため、もう1つの上方歌舞伎の芸脈である「河内屋」の芸も継承する決意を固め『忠臣蔵』の七役早替りや『夏祭』の団七、『小栗判官』の風間八郎などを演じて敵役、老け役、実事まで芸域を広げた。それらの実績を踏まえて2005(平成17)年に上方歌舞伎のシンボルである坂田藤十郎の名跡を襲名した。歌舞伎史のうえでは四代目になるが、藤十郎にとっては初代の芸を継ぐ二代目のつもりで、名実ともに上方歌舞伎の継承者になった。生涯を賭けて上方歌舞伎の演技、演出の復活と継承に努めたのである。

 若い時は美貌で華と実を兼ね備えた女方として人気を集めたが、立役としては柔らかみと色気のある芸で魅力を発揮した。義太夫狂言では原作の浄瑠璃を読み込んだ役作りとイキの詰んだ台詞術に持ち味を出した。『先代萩』の政岡、『妹背山』の定高、『合邦』の玉手御前、『忠臣蔵』の戸無瀬などが代表作である。女方に不可欠な舞踊にも長じ『娘道成寺』『鏡獅子』『大津絵道成寺』『藤娘』などで艶やかな踊りを見せた。一方、若い時代から東京の先輩俳優の相手役も務めたため『勧進帳』の義経、『助六』の白酒売、『籠釣瓶』の八ツ橋、『鳴神』の雲の絶間など江戸狂言にも当たり役を残している。

毎日芸術賞、日本芸術院会員など数々の栄誉に輝き、人間国宝の指定を受け、2009(平成21)年には関西の歌舞伎俳優としては初めて文化勲章を受章した。藤十郎の活躍は一時期低迷していた関西歌舞伎を復活させる働きをしただけでなく、上方芸能全体に光を当てるきっかけを作った。平成になって文楽、落語、地唄舞など上方独自の伝統芸能に携わっている人々が数々の栄誉に輝くことになったのである。落語の三代目桂米朝、文楽の七代目竹本住太夫、吉田簑助、地唄舞の四世吉村雄輝らで、いずれも藤十郎らが1963(昭和38)年に作った「上方風流(かみがたぶり)」という会の仲間たちだった。藤十郎は上方芸能全体を牽引する役割をも果たしたのである。半世紀に亘って歌舞伎界のトップスターとして活躍してきた藤十郎の東京での最後の舞台は2019(令和元)年4月歌舞伎座の『寿栄藤末廣』で自身の米寿を祝う舞踊で、息子の鴈治郎、孫の中村壱太郎ら親子3代が揃って出演した。最後の舞台になったのは生まれ故郷の京都南座の顔見世の『金閣寺』の慶寿院だった。

やるべきことをすべてやり終えて、藤十郎は亡くなった。思い残すことはないだろう。その意味では稀にみる強運の人だった。

【水落 潔】

経歴

芸歴

▼二代目中村鴈治郎の長男。1941年10月大阪・角座『嫗山姥(こもちやまんば)』の公時で二代目中村扇雀を襲名し初舞台。90年11月歌舞伎座『吉田屋』の伊左衛門、『河庄』の治兵衛ほかで三代目中村鴈治郎を襲名。2001年には近松座20周年記念公演で『心中天網島』を、また英国で『曽根崎心中』を上演。2005年12月南座『夕霧名残の正月』の藤屋伊左衛門ほかで四代目坂田藤十郎を襲名。

受賞

▼1951年5月四ツ橋文楽座『摂州合邦辻』の玉手御前で関西ペンクラブ賞。51年11月大阪歌舞伎座『源氏物語』の光君(若き頃)で52年大阪市民文化賞。53年『曽根崎心中』のお初で第6回毎日演劇賞。54年『曽根崎心中』のお初で博多ペンクラブ賞。67年10月御園座『吉田屋』の夕霧で名古屋演劇ペンクラブ年間賞。68年十三夜会年間大賞。73年大阪府民劇場賞。76年8月中座『宿無団七時雨傘(やどなしだんしちしぐれのからかさ)』の団七茂兵衛で76年度十三夜会年間大賞。79年10月御園座『心中天網島』の治兵衛で名古屋演劇ペンクラブ年間賞。80年8月国立劇場小劇場『宿無団七時雨傘』の団七茂兵衛で80年度芸術選奨文部大臣賞。82年8月第1回近松座公演『心中天網島』の治兵衛で82年度大阪府民劇場賞。85年度日本芸術院賞。87年大阪芸術賞。89年第10回松尾芸能賞大賞。90年紫綬褒章。91年十三夜会年間大賞。92年第10回京都府文化賞功労賞。93年第34回毎日芸術賞。94年重要無形文化財保持者(人間国宝)。同年日本芸術院会員。95年紺綬褒章。97年第4回読売演劇大賞最優秀男優賞。同年第17回眞山青果賞大賞。2000年第7回読売演劇大賞優秀男優賞。01年10月御園座『芦屋道満大内鑑』の女房葛の葉・葛の葉姫で名古屋演劇ペンクラブ年間賞。02年近松座の活動に対して第1回朝日舞台芸術賞特別賞。03年文化功労者。06年大阪文化発信賞。06年度第58回NHK放送文化賞。07年第7回朝日舞台芸術賞。08年第20回高松宮記念世界文化賞。同年第15回読売演劇大賞優秀男優賞。09年文化勲章。10年十三夜会賞年間大賞、ほか多数。

著書・参考資料

昭和30年『中村扇雀』(齋藤竹治編輯、梨の花会)、同年『中村扇雀アルバム 青春の花道』(加賀山直三編、久保書店)、昭和31年『扇雀三面鏡』(中村扇雀著、河出書房)、昭和59年『上方の女方と近松 中村扇雀写真集』(吉田千秋・斉藤興子・岩田彰写真、向陽書房)、平成元年『近松劇への招待-舞台づくりと歌舞伎考-』(中村扇雀著者代表、學藝書林)、同年『扇雀-上方芸と近松』(岩田アキラ写真、京都書院)、平成9年『一生青春』(中村鴈治郎述・土岐迪子聞き書、演劇出版社、平成16年 新版)、平成12年『鴈治郎芸談』(中村鴈治郎著、水落潔編、向陽書房)、平成17年『夢 平成の藤十郎誕生』(坂田藤十郎著、亀岡典子聞書、淡交社)、同年『平成の坂田藤十郎』(「演劇界」別冊、秋山勝彦編、演劇出版社)、平成18年『坂田藤十郎 歌舞伎の真髄を生きる』(坂田藤十郎著、世界文化社)、平成20年『坂田藤十郎・扇千景 夫婦の履歴書』(坂田藤十郎・扇千景著、日本経済新聞出版社)

舞台写真