
なかむら またごろう
| 本名 | 中村幸雄 | ![]() |
|---|---|---|
| 俳名・舞踊名 | 俳名は紫琴 | |
| 屋号 | 播磨屋 | |
| 紋 | 揚羽蝶、向菱 | |
| 生没年月日 | 大正3(1914)年7月21日〜平成21(2009)年2月21日 | |
| 出身 | 東京・赤坂田町 |
初代中村又五郎の長男として、大正3年に東京・赤坂田町に生まれる。父は浅草の公園劇場を本拠に活躍した小芝居のスターだったが、大正9年に36歳で早世。長男・幸雄は親戚の初代中村吉右衛門のもとで指導を受けることになり、翌年1月に二代目中村又五郎を継ぎ市村座で初舞台。当時の市村座は若手の初代吉右衛門と六代目尾上菊五郎の「菊・吉」がライバルとして腕を競い、若々しい活気にあふれていた。又五郎も子役としてここで修業を重ね、天才子役として東京の各座を人力車で掛け持ちし、五代目中村歌右衛門など当時最高の名優たちと共演、吉右衛門一座の娘方と若衆方として活躍した。昭和19年に応召し横須賀海兵隊に入隊したが、翌20年に発病して入院し終戦を迎えた。11月に吉右衛門一座に復帰。戦後は時代物・世話物・新作を問わず、立役・女形の幅広い役柄で活躍。昭和36年に八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)らとともに東宝劇団の結成に参加し東宝の専属となる。東宝では俳優としての活躍はもちろん、女優の演技指導や外国でも歌舞伎の指導に貢献。昭和40年には当時の東宝劇団の若手だった市川染五郎(現・九代目松本幸四郎)、中村萬之助(現・二代目中村吉右衛門)たちの勉強会「木の芽会」に補導出演し、『東海道四谷怪談』のお岩を演じた。そのときの名演技はいまも伝説として語り伝えられている。昭和45年から国立劇場ではじまった歌舞伎俳優養成事業の講師となり、以後30年以上にわたり歌舞伎俳優の育成に尽力。山田五十鈴にたのまれて「東宝ゆかた会」を創り、東宝の俳優に伝統的な芸を学ぶ機会を与えた。このころから舞台では主に脇役や老け役にまわるようになり、品格ある正統派の演技で芝居を引き締めていた。
現在の歌舞伎界を背負う60代以下の幹部俳優のほとんどが又五郎の指導を受けているが、昭和の名人とうたわれた初代吉右衛門と六代目菊五郎の双方の芸を熟知し、それをきっちりと若手に伝えた功績は大きい。昔ながらの名人肌の役者気質とすばらしい記憶力、学者肌の研究熱心さ、合理的な教え方は類を見ない。
平成16年12月、東京・歌舞伎座で中村勘九郎(翌年十八代目中村勘三郎を襲名)主演の『今昔桃太郎』で犬の役で舞台に立った(昭和34年4月歌舞伎座の勘九郎初舞台の演目『昔噺桃太郎』でも同じ犬の役を演じている)。最後の舞台は平成18年4月歌舞伎座での「六世中村歌右衛門五年祭追善口上」。平成21年1月2日に行われた「歌舞伎座さよなら公演 古式顔寄せ手打ち式」にも姿を見せ歌舞伎ファンを喜ばせたが、翌月天寿を全うした。
初代中村又五郎の長男。大正10年1月市村座『腕の喜三郎』の倅(せがれ)喜之助で二代目中村又五郎を名のり初舞台。以来80年以上芸名を変えず。昭和9年名題昇進。昭和40年伝統歌舞伎保存会会員第一次認定を受ける。
昭和28年度芸術祭賞奨励賞。昭和50年紫綬褒章。昭和60年伝統文化ポーラ特賞。平成2年名古屋演劇ペンクラブ年間賞。平成5年松尾芸能賞特別賞。平成8年芸術院賞恩賜賞。平成9年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
参考資料など:昭和52年『又五郎の春秋』(池波正太郎著、中央公論社、昭和54年中公文庫)、昭和57年『芝居万華鏡』(山田五十鈴との対談集、中央公論社C・BOOKS)、平成7年『聞き書き 中村又五郎歌舞伎ばなし』(郡司道子著、講談社)など。
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