中村 吉之丞 (2代目) ナカムラ キチノジョウ

本名
田中吉郎
屋号
播磨屋
定紋
向い蝶、澤瀉蝶
生没年月日
昭和7(1932)年04月05日〜平成26(2014)年01月26日
出身
東京

プロフィール

 上品で、老け役の白(はく)の鬘がよく似合う女方であった。

 東京・神楽坂の一般家庭に生まれ、小学生の時に三代目中村時蔵に弟子入り。その後、初代中村吉右衛門門下に転じ、娘婿の初代松本白鸚、二代目吉右衛門と3代に仕えた。170cmのすらりとした長身で、立ち姿の美しさも印象に残る。太平洋戦争中は初代吉右衛門が疎開した日光に供し、軍需工場の慰問にも付き添った。名優初代吉右衛門からは厳しい指導を受け、誉められたことはなかったという。まだ幼かった二代目吉右衛門の子守をして寝かしつけ、子役時代は化粧も担当した播磨屋一門の生き字引的存在であった。

 白鸚が昭和36年に松竹から東宝へ移籍した際には行動を共にした。一門の勉強会の「木の芽会」などで『盛綱陣屋』の微妙(みみょう)、『夏祭浪花鑑』のお梶、『ひらかな盛衰記』のお筆、『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』のお京、『桑名屋徳蔵入舩物語』の檜垣などの大役をつとめ、本興行では、当時は『仮名手本忠臣蔵』の諸士など立役も経験した。当時のことを「東宝では『木の芽会』が唯一の歌舞伎の芝居を勉強させていただくチャンスでしたから、一生懸命にやりましたよ。先輩の皆さんに教えていただき、いくらか舞台でも喋れるようになりました」と振り返っていた。このころの研鑽が後年に大きな華を咲かせた。容姿に恵まれ、演技力に優れ、東宝に歌舞伎が定着していたら、立女形(たておやま)にもなれた逸材であった。

 松竹に復帰後は古典に技量を存分に発揮した。吉之丞襲名公演では『引窓』のお幸をつとめた。吉右衛門の南与兵衛、五代目中村富十郎の濡髪長五郎、現・中村魁春(当時五代目松江)のお早の配役で、義理の息子と実の息子の両方への愛情に揺れる姿を繊細に表現した。義太夫物のあたり役は多く、『金閣寺』の慶寿院尼、『毛谷村』のお幸、『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の栄御前で気品を示し、『傾城反魂香』の土佐将監北の方、『仮名手本忠臣蔵』「六段目」のおかや、『義経千本桜』「すし屋」の弥左衛門女房おくらでは、弟子や子への情を出した。世話物なら『河内山』の後家おまきでの娘を気づかう姿、『女殺油地獄』のおさわの不良息子与兵衛への愛、『牡丹燈籠』で亡霊となってまで、自分の育てたお露に附きそう乳母お米の不気味さも忘れ難い。一方で『梅ごよみ』の芸者政次では、辰巳芸者のすっきりとした色気を見せた。

【小玉祥子】

経歴

芸歴

昭和17年三代目中村時蔵に入門。昭和18年8月歌舞伎座『海軍』のハワイ二世少女役で中村蝶丸を名のり初舞台。同年10月初代中村吉右衛門の弟子となり、三代目中村吉三と改名。昭和27年1月歌舞伎座『松浦の太鼓』の茶屋の娘で中村万之丞と改名し、名題昇進。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。平成6年9月歌舞伎座『引窓』のお幸で二代目中村吉之丞を襲名し、幹部昇進。

受賞

昭和36年菊田一夫賞。昭和55年4月『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』の太平次女房お道で、昭和57年4月『時平の七笑』の腰元勝野で国立劇場奨励賞。昭和59年6月『三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう)』の三途川の婆で歌舞伎座賞。昭和60年勘斎で歌舞伎を育てる会演技賞。平成2年伝統文化ポーラ賞。平成3年1月『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』の芸者おえんで、平成6年11月『博多小女郎浪枕』の奥田屋女房お松で国立劇場優秀賞。平成5年眞山青果賞助演賞。平成17年文化庁長官表彰。平成20年10月『大老』の老女琴浦で国立劇場特別賞。平成22年第16回日本俳優協会賞特別賞。

舞台写真

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