嵐 若橘 (3代目) アラシ ワカキツ

本名
金子正行
屋号
伊丹屋
定紋
一階立花菱
生没年月日
明治31(1898)年4月20日(29日とする資料あり)〜昭和39(1964)年08月23日
出身
東京・中央区日本橋

プロフィール

芸歴は不詳。関西では、五代目嵐橘三郎の門に入り、若橘の名を貰ったと聞いたことがある。晩年は、二代目林又一郎に付き、孫・林与一の世話役を務めていた。長く関西歌舞伎の大部屋筆頭に坐っていた。身体つきは、小柄で短躯、明るい性格で、楽屋内の名物者だったし、子役の面倒を親身にみていた。また芝居の効果を一手に引き受けていた。道具を使っては勿論、自分の声での擬声−犬の声−など上手いものだった。大部屋の筆頭として『仮名手本忠臣蔵』「四段目」判官切腹の襖内での諸士の、「郷右衛門殿、郷右衛門殿、殿ご存生のうち、御尊顔を拝したきと一家中の願い、この儀お取り次ぎ」という声は、関西歌舞伎では、この人に限っていた。懐かしく耳に残っている。

昭和39年、中座で『博多小女郎浪枕(はかたこじょろうなみまくら)』で、毛剃の子分に扮し、奈落を走っていた時転倒し、その夜、あっけなく去った。与一の成長を見届けられなかったこと、そして楽しみにしていた自宅の傍を走ることになっていた、新幹線の開通を見られなかったのは、心残りであったろう。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

明治35年2月本郷春木座『安達原』の袖萩の娘おきみで澤村宗三を名のり初舞台(同年5月春木座『三十三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)』の緑丸とする資料あり)。大正元年松竹合名会社に入社。昭和3年1月初代中村鴈治郎一座にて大阪中座で準幹部に昇進。昭和7年松竹キネマの映画『忠臣蔵』後篇 江戸の巻に塩冶判官役で出演。
生年月日を1898年4月29日とする資料あり。『近代歌舞伎年表』京都篇 第9巻の昭和4年1月の準幹部昇進俳優を紹介する項に、「尾上卯三郎門下で初名卯多之助」との記述あり。

受賞

昭和38年10月『馬子丑松』で演技賞。