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嵐 璃珏 (五代目)

あらし りかく
本名大江勝之助
俳名・舞踊名俳名は佳香
屋号豊島屋
定紋五ツ橘、五ツ千鳥
生没年月日 明治33(1900)年09月03日 ~ 昭和55(1980)年12月27日
出身大阪市

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プロフィール

名人とうたわれた四代目嵐璃珏の甥。後に養子となる。6才の時、大阪弁天座で本名勝之助を芸名として初舞台を踏む。子役の頃、楽屋で大怪我をし役者嫌いになり、大阪府立今宮中学を卒業後、銀行に就職したが、大正2年、舞台に戻り、五世嵐珏蔵(かくぞう)を襲名、中村扇雀(後の二代目中村鴈治郎)を中心とした“青年歌舞伎”に加入し、二枚目として人気を集めた。青年歌舞伎は京都明治座(後の京都松竹座)で8年間常打ちしたが、扇雀が父鴈治郎一座に加わることが多くなり自然解散になり、折りからの新興キネマの誘いを受け、3年契約で映画界入りをし、若手スターとして活躍した後、松島八千代座に入り大歌舞伎にはない珍しい小芝居の狂言も経験する。二代目市川右團治と片岡我童(後の十二代目片岡仁左衛門)の尽力で大芝居に復帰してからは、関西の歌舞伎の各座で勤め、脇役としての地歩を固めていった。昭和20年3月、中座の『絵本太功記』「十段目」の真柴久吉で、五代目嵐璃珏を襲名する。その月の14日早暁、大空襲で中座が焼け、襲名興行は半月しかできなかった。

面長な古風なマスク、やや重い独特の科白廻し、そして身体全体についた上方の味はすこぶる貴重で、若い頃演じた数々の芯の役の経験が生き、役どころを心得た上方歌舞伎そのもののような脇の役々を見せた。技量よりむしろ仁でみせ、役を生かす役者で、身についた二枚目や、三枚目の面白さは独自のものであったが、晩年の老け役の味も忘れ難い。『仮名手本忠臣蔵』の鷺坂伴内、『心中天網島』「炬燵」の舅五左衛門、老女形では『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』「引窓」の母お幸など、他には求められない風味があった。六代目中村歌右衛門に招かれて演じた『二人夕霧』の弟子では、上方風の三枚目ぶりで瞠目させた。人柄の故か、敵役では押しが足りず、本人も好まなかった。

昭和55年南座の顔見世で、これも持ち役にしていた『曾根崎心中』の天満屋主人に扮していたが、中日に倒れ、その月末、不帰の人となった。子の珏蔵は早くから廃業しており、上方の名門豊島屋は絶えた。

【奈河彰輔】

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経歴

芸歴:

明治36年7月嵐勝之助を名乗り道頓堀弁天座新派『不如帰』の漁師の子で初舞台。大正2年7月五代目嵐珏蔵を襲名。昭和20年3月五代目嵐璃珏を襲名。昭和21年8月中座にて幹部昇進。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第一次認定を受ける。子息が六代目嵐珏蔵を名乗り戦前から戦後にかけて一時期舞台に立っていた。

受賞:

昭和47年勲五等瑞宝章受章。昭和54年11月第14回大阪市民表彰文化功労部門で表彰。昭和55年2月芸団協功労者表彰。

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舞台写真 (写真をクリックすると拡大画像をご覧いただけます)

  • 『艶容女舞衣』酒屋
    (左から二人目)六代目中村歌右衛門【半七女房お園】、(右から二人目)五代目嵐璃■【半兵衛女房お幸】、(右)八代目坂東三津五郎【茜屋半兵衛】 ※■は王偏に玉

    昭和48年1月 歌舞伎座
  • 『仮名手本忠臣蔵』三段目
    (右)五代目嵐璃■【鷺坂判内】、(右から二人目)中村駒七【侍】 ※■は王偏に玉

    昭和44年2月 大阪新歌舞伎座
  • 『仮名手本忠臣蔵』三段目(裏門)
    (左)五代目嵐璃■【鷺坂判内】、(中)三代目實川延若【早野勘平】、(右)現・坂田藤十郎【おかる】 ※■は王偏に玉

    昭和42年3月 歌舞伎座
  • 『心中天網島』時雨の炬燵
    (左)現・坂田藤十郎【女房おさん】、(中)二代目中村鴈治郎【紙屋治兵衛】、(右)五代目嵐璃■【舅五左衛門】 ※■は王偏に玉

    昭和51年12月 南座

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