坂東 八重之助 バンドウ ヤエノスケ

本名
秋元安雄(旧姓近沢)
屋号
音羽屋
定紋
鶴の丸、八重かたばみ
生没年月日
明治42(1909)年03月25日〜昭和62(1987)年01月07日
出身
神奈川県

プロフィール

立師(たてし)の名人、立廻りの神様であった。晩年は後輩の指導に専念したが、壮年期までは舞台の上で熟練の技術を示し、昭和38年7月歌舞伎座における七代目尾上梅幸の『有松染相撲浴衣(ありまつぞめすもうゆかた)』(有馬の猫)で化猫に翻弄される局の吹替えで屏風の上で逆立する超人的な芸はテレビ番組にまでなった。

歌舞伎の魅力の1つに立廻りがある。とんぼを返る、それ1つとっても、芯の演者とそれにからむ四天(よてん)や軍兵をつとめるカラミの間(ま)と呼吸がぴったりと合ってこそ、美しい一瞬を生む。

八重之助ははじめ上方で女形の修業をしていたが、東上して六代目尾上菊五郎の一座に入ってから、小柄で身が軽かったことから立廻りの修業をした。六代目菊五郎は、「間は魔(ま)だ」と言った人だけあって、自分でも若い頃からとんぼを返ったという。その菊五郎の薫陶を受けた八重之助は、やがて菊五郎劇団の立師となって数々の立廻りを工夫し、今に伝わる型を創っていった。『鈴ヶ森』の権八と雲助たち、『白浪五人男』極楽寺の大屋根での弁天小僧と捕手との大立廻りなど、迫真的でかつ絵画美的な魅力は、いまも八重之助の魂が脈々と後輩たちの中に生きている。四代目尾上菊十郎や尾上松太郎、坂東(現・市村)橘太郎、三代目坂東三津之助など後進を育てた。また国立劇場で歌舞伎俳優養成の開始時から講師として熱心に指導した。厳しい指導ぶりは有名だが、それも伝統を守り後輩を育成するために彼が鬼になった結果である。歌舞伎は頂点に立つスターだけでは成立しない、ピラミッドだ。巧い、と思わず観客をうならせるカラミの1人1人に拍手が起こるのは当然である。復活された狂言の立廻りを考案するのも立師の腕で、『蘭平物狂』の大立廻りや『野晒悟助(のざらしごすけ)』の大詰の八幡鐘の立廻りはこの人のもの。

【秋山勝彦】

経歴

芸歴

大正9年10月四代目中村福助(三代目梅玉)に入門し、中座『吉田屋』の禿(かむろ)で中村福昇を名乗り初舞台。大正13年12月六代目坂東彦三郎の門弟となり、坂東八重之助と改名。昭和5年7月名題適任証を受ける。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。

受賞

昭和33年毎日演劇賞。昭和39年記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に指定。昭和43年長谷川伸賞。昭和48年12月紫綬褒章。昭和57年勲四等瑞宝章。昭和59年3月松尾芸能賞特別賞。昭和60年7月第5回伝統文化ポーラ特賞。

著書・参考資料

昭和38年NHKテレビでドキュメンタリー番組『影の名優』が放送される。昭和59年『歌舞伎のタテ』(郡司正勝・坂東八重之助編、講談社)など。

舞台写真

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