中村 又五郎 (2代目) ナカムラ マタゴロウ

本名
中村幸雄
俳名・舞踊名
俳名は紫琴
屋号
播磨屋
定紋
揚羽蝶、向菱
生没年月日
大正3(1914)年07月21日〜平成21(2009)年02月21日
出身
東京・赤坂田町

プロフィール

 二代目中村又五郎は大正10年1月に6歳で市村座の『腕の喜三郎』の喜三郎倅(せがれ)喜之助で襲名した。91歳の平成18年4月歌舞伎座「六世中村歌右衛門五年祭追善口上」に出演したのを最後に、平成21年2月に94歳で亡くなるまで名前を変えることはなかった。90歳前後での現役は近年でも三代目尾上多賀之丞や十三代目片岡仁左衛門などごく稀にあったが、又五郎は歌舞伎俳優としての舞台ばかりでなく、最後まで歌舞伎俳優研修の主任講師を務められ、研修生の稽古に立ち会われたことは特筆大書したい業績だった。

 昭和41年に開場した国立劇場は初めての国の劇場として公演事業以外にも多くの新しい試みが行われたが、その中でも「伝統芸能伝承者養成研修事業」の創設が目玉だった。その頃、伝承者(俳優)の払底が歌舞伎の将来を危うくするとの危惧が現実になりつつあった。その危機を回避すべく俳優養成が喫緊の課題であり、その実現に多くの知恵が集約されたが、殊更重要なのが指導者の人選であった。そこで白羽の矢が立ったのが又五郎だった。当時八代目松本幸四郎(初代白鸚)一門と共に東宝の専属(昭和36年から)であったが、東宝での歌舞伎公演は年に数えるほどで、又五郎は腕と時間を持て余していたところだった。また同世代の俳優もこぞって又五郎を推薦し「又ちゃんなら安心だ」という総意があった。歌舞伎界にとっても国立劇場にとっても又五郎の存在は幸運であった。当時の歌舞伎界にあって大幹部とされた七代目尾上梅幸・二代目尾上松緑・十七代目市村羽左衛門は尾上菊五郎劇団、六代目中村歌右衛門・十七代目中村勘三郎・幸四郎は中村吉右衛門劇団のそれぞれ出身だが、大正時代から菊・吉に可愛がられ父・初代又五郎が吉右衛門一座にあったことにより実母の意向もあって吉右衛門の元に預けられたが、菊五郎も手元に置いておきたかったようで、吉右衛門一座にありながら六代目が『義経千本桜』の小金吾を教えて「幸雄が一番達者だ」と周囲に語ったこともあり、「俺が長兵衛をつきあって、幸雄に白井権八をやらせたい」といった、ということも伝えられている。幼くして実父に死に別れ、名子役時代を経て、文字通り菊・吉の薫陶を受けたことを同世代の大幹部はよく知っていた。「又ちゃんは背が少し足りないから損をしちまったけど、そうじゃなかったら俺たちだれも適わないよ」と、松緑が筆者に洩らしたことがあったが、同じ吉右衛門一座の歌右衛門の又五郎に対する態度も、同輩というよりも盟友といった接し方だった。女形、立役、老人、老女、江戸和事、荒事と満遍なく務められた人だった。養成の教材映画がその見事な演技と指導の姿を捉えている。『歌舞伎に生きる―女方への道』と『江戸歌舞伎の華―荒事入門』の2本を見るだけでも如何に優れた俳優であったのか、そして如何に秀逸な指導者であったのかが解る。現在26期生が学んでいるが、平成22年修了の19期生まで手塩にかけた研修修了生は150人を超え、現状約300人の歌舞伎俳優中3分の1のおよそ90人が又五郎門下の研修修了生ということになる。数だけではなくその内容の充実も高く評価されるべきで、昭和から平成の歌舞伎界に果たした金字塔は不滅の耀きを放っている。

 年の離れた若い俳優の指導にも労を厭わず当られた。東宝で一緒だった高麗屋の2人息子の現白鸚、二代目吉右衛門の幼い頃からの指導はいうに及ばず、十八代目勘三郎や十代目坂東三津五郎、三代目中村橋之助(現・芝翫)等の指導にも小まめに当たっていた。本当に大事な人だった。大歌舞伎の伝統を伝え、自らの演じた舞台はもとより他人の型や表現を確実に言葉にして伝えることのできた稀有の人だった。それでいてどこにいても多弁の人ではなかった。静かにそこにいて、それだけで座をまとめる人だった。平成6年7月、日本3大伝統演劇「能・文楽・歌舞伎」の『俊寛』を同一の舞台で演じる公演がウイーン、ワルシャワ、プラハ、ロンドンで行われた。歌舞伎の俊寛は又五郎で、初役だったが初代吉右衛門屈指の当たり役で、「鬼界ヶ島」では俊寛以外の全役を務めたことがあるという又五郎の俊寛は当然見事だったが、能楽・文楽・歌舞伎が一座を共にすることは国内でも殆ど例がない。風習というか、文化がまるで違う。同じく日本の伝統芸能といいながら、世界の違う60人からの人を一座としてまとめられたのは又五郎の無言の力だった。それは、圧倒的だった。年齢やキャリアの上からでもこの一座の座頭(ざがしら)は又五郎であることはいうまでもないのだが、この座頭は黙って先頭に立って事務局の意向に沿って行動して下さる。当然他の人はついてくる。どれほど助けられたことか。この3大伝統競演公演はそれ以来日本国内では実現していない。又五郎の存在の大きさを今更ながら実感するのである。

【織田紘二】

経歴

芸歴

初代中村又五郎の長男。大正10年1月市村座『腕の喜三郎』の倅喜之助で二代目中村又五郎を名のり初舞台。以来80年以上芸名を変えず。昭和9年名題昇進。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。

受賞

昭和28年度芸術祭賞奨励賞。昭和50年紫綬褒章。昭和60年伝統文化ポーラ特賞。平成2年名古屋演劇ペンクラブ年間賞。平成5年松尾芸能賞特別賞。平成8年芸術院賞恩賜賞。平成9年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。

著書・参考資料

昭和52年『又五郎の春秋』(池波正太郎著、中央公論社、昭和54年 中公文庫)、昭和57年『芝居万華鏡』(中村又五郎・山田五十鈴対談集、中央公論社、平成10年 小池書院 道草文庫)、平成2年『芝居-日本の伝統を伝えることわざ』(中村又五郎・佐貫百合人著、創拓社)、平成7年『聞き書き 中村又五郎歌舞伎ばなし』(中村又五郎述、郡司道子著、講談社)
など。

舞台写真