中村 政之助 (2代目) ナカムラ マサノスケ

本名
岩崎末松
屋号
高砂屋
定紋
かんぎり、三葉雀
生没年月日
明治28(1895)年01月10日〜昭和58(1983)年11月

プロフィール

上方歌舞伎の古老五代目中村嘉七の門弟を振り出しに、六代目嵐吉三郎、三代目中村梅玉と師匠は変わるが、終始関西歌舞伎の大舞台を離れることはなかった。地道に勤め、昭和16年名題昇進の際の披露役は、三代目阪東寿三郎の『鳥辺山心中』の若徒八助であった。戦後も老けの脇役で堅実な舞台を見せた。『仮名手本忠臣蔵』でいえば、「進物場」の加古川本蔵や、「五段目」の親与市兵衛を持ち役とし、立派な柄でありながら、敵役はもう1つうつらなかった。実直で、几帳面な性格をかわれ、昭和30年、結成間もない関西歌舞伎俳優協会(会長三代目市川寿海)の会員俳優の互選により、頭取に選ばれた。現役を続けたい本人は、当初は多少不本意であったようだが、その後も改選の度ごとに、満票の支持を得て、ずっと頭取の職責をまっとうした。端正、きちんとしたたたずまいで、頭取部屋に坐る姿は、ある意味では関西歌舞伎の顔であった。楽屋内の礼儀作法には喧しく、座頭(ざがしら)俳優や劇団のマネージャーのような今の頭取とは違う、権威のある古来本来の頭取であった。温厚篤実、他を誹謗することは勿論、自分を語ることは滅多になかったが、古い大名題の役者の思い出を時おり懐かしげに語っていた。大先輩二代目市川箱登羅(はことら)にダメを出された話など、貴重な脇役芸談であった。

無類の信心家で、神仏の啓示を信奉した。昭和49年、まだ元気な内に老齢を理由に自分で引退を決め、引きこもった後は、一切芝居の世界に顔を見せなかった。昭和58年11月、ひっそりと逝った。訃報を聞いたのはずっと後であった。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

父は文楽人形遣いの三代目吉田玉蔵(玉造)。明治43年1月五代目中村嘉七に入門、明治43年2月大阪浪花座『古八』(古手屋八郎兵衛、すなわち『鐘もろとも恨鮫鞘』のことと思われるが、当該年月に上演記録がないため未詳)の小僧で中村嘉之助を名乗り初舞台。大正2年3月六代目嵐吉三郎に入門し、嵐冠之助と改名。大正15年嵐吉三郎没後、三代目中村梅玉に入門し、中村政之助を襲名。昭和16年6月中座(昭和14年7月中座とする資料あり)『鳥辺山心中』の八助で名題昇進。昭和49年8月引退。

受賞

昭和30年5月努力賞。