市川 段四郎 (3代目) イチカワ ダンシロウ

本名
喜熨斗政則
俳名・舞踊名
俳名は笑楽
屋号
澤瀉屋
定紋
三升に段の字、八重澤瀉
生没年月日
明治41(1908)年10月05日〜昭和38(1963)年11月18日
出身
東京・浅草

プロフィール

相似形と評された父・二代目市川猿之助(後に初代猿翁)との共演による『二人三番叟』『連獅子』は代表的な名舞台。存在が大きかった父が演じる舞台で脇を固めることが多かったが、『御摂(ごひいき)勧進帳』の弁慶、『矢の根』の五郎、『阿古屋』の岩永、『慶喜命乞』の村田新八郎など骨格のしっかりした豪快な役がはまった。父の意向で猿之助にならずに段四郎を襲名したが、その披露狂言には、父も猿之助襲名披露に演じた澤瀉屋の大事な作品、歌舞伎十八番『鎌髭』を選び、田原小藤太を父から譲られて勤めた。後に猿翁十種の1つとなる『黒塚』では、昭和14年11月東京劇場の初演以来、強力太郎吾を持ち役とした。昭和36年5月地方巡業では心臓病の父に代わって、後ジテの安達原の鬼女だけを代役した。

若いころは青年歌舞伎で大きな役を体験し、昭和10年6月新橋演舞場の『仮名手本忠臣蔵』の通しでは塩冶判官、由良之助、若狭之助、師直、直義、石堂、薬師寺、勘平、「道行」の伴内、千崎、定九郎を日替わりで挑戦し、総合的に高い評価を得た。また、叔父の八代目市川八百蔵(後の八代目中車)主宰の「黎明会」(昭和12年)に参加し、昭和25年ピカデリー劇場での実験劇場ではスタインベック作『廿日鼠と人間と』に出演している。澤瀉屋の血がそうさせるのか、新しい演劇への興味が非常に強かった。祖父・二代目段四郎以来の家訓から立教中学を卒業したことと、10代最後に単身でヨーロッパ各地を廻ってさまざまな演劇を見聞してきたことで、視野を広げた表れであろう。

昭和36年に東宝に移籍し、歿するまで在籍した。映画の出演も多く、『喧嘩安兵衛』では中山安兵衛を主演。最晩年は病を得て舞台には立てなかった。昭和38年5月歌舞伎座の父と息子2人の襲名披露興行には出演できなかったが、やはり病気休演した初代猿翁が千秋楽までの3日間出演することになり、段四郎も自宅療養中の身をおして、ともに『襲名披露口上』の席に連なった。これが最後の舞台となり、半年後に歿した。才能を持ちながら父・初代猿翁の陰に隠れ、目立つ存在にはなりえなかった優であった。その意味で本領を発揮する前に没したのが惜しい。弟に夭逝した市川三四助(みよすけ)がいた。昭和13年人気の映画女優高杉早苗と結婚し、子供は3人。長男が三代目市川猿之助(現・猿翁)、次男が現・段四郎、長女が女優となった市川靖子。

【金森和子】

経歴

芸歴

大正2年7月東京座『勢獅子』の鳶の者で二代目市川團子(だんこ)を襲名して初舞台。昭和3年7月二代目市川左團次一座の訪ソ(現・ロシア)公演に参加、その後約半年間ヨーロッパをまわり演劇を見聞してきた。昭和5年10月歌舞伎座『鎌髭』田原小藤太で三代目市川段四郎を襲名。昭和26年東宝映画に出演、その後も舞台の合間に映画に出演する。父・二代目市川猿之助(のち初代猿翁)が座頭(ざがしら)の昭和30年10月訪中公演、昭和36年7月訪ソ公演に参加。

舞台写真

写真をクリックすると拡大画像をご覧いただけます