澤村 宗十郎 (7代目) サワムラ ソウジュウロウ

本名
澤村福蔵
俳名・舞踊名
俳名は高賀
屋号
紀伊国屋
定紋
丸にいの字
生没年月日
明治8(1875)年12月30日〜昭和24(1949)年03月02日

プロフィール

三代目澤村訥升(とっしょう)時代は花形役者として、六代目市村家橘時代の十五代目市村羽左衛門を凌駕するほどの人気があったという。宗十郎襲名披露の『高野山』は、五代目中村歌右衛門以下、当時の大幹部が揃って侍僧につきあう豪華な舞台だった。

帝国劇場専属の時期は、時代・世話の新作から益田太郎冠者作の現代喜劇に至るまでの幅広い分野で活躍したが、本領は若いときから好評だった娘役や和事の役で、古典の醍醐味を観客に堪能させている。初代以来の代々の宗十郎が得意とした芸域を、ほとんど完全に継承していたといえる。

帝国劇場が映画館に転じたため、その専属から離れると、しばらく不遇の時代が続いた。その理由としては、古いタイプの役者で、理知的な近代歌舞伎の時流から取り残された気味があったこと、悪声で咽喉から絞り出すような口跡とイキんだような台詞廻し、上方で修業した影響という粘っこい芸風が、観客の嗜好に反したことなどが考えられる。

しかし、第2次大戦後、その錦絵に見られるような容姿、古風な舞台が再確認され、“宗十郎歌舞伎”という言葉さえ生まれた。宗十郎の初代、五代目と七代目自身も用いた俳名“高賀”を冠した家の芸「高賀十種」も選定された。内容は若いときから絶賛された『矢口渡』のお舟をはじめ、先祖から受けついだ『高野山』『鈴木主水』『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』『鶯塚』『八重桐廓噺』『吉田屋』に、七代目が好評を得た『蘭蝶』と新作の『忠節女夫松(ちゅうせつめおとまつ)』(四世瀬川如皐作)『紀伊国文左大尽舞』(右田寅彦作)を加えた十種。このほか『助六』の白酒売、『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の頼兼などの和事役は、戦後他の追随を許さなかったもの。『新薄雪物語』の梅の方や『仮名手本忠臣蔵』「九段目」のお石などの武家女房役、『盛綱陣屋』の微妙(みみょう)、『道明寺』の覚寿などの老女役で示した情味、また『阿古屋琴責』の重忠や『釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)』の久吉で見せた舞台の大きさも傑出していた。

実生活では昔の役者そのままの洒落っ気に富み、人柄を示す逸話は多い。最後の舞台は昭和24年3月、巡業先の姫路市山陽座で務めた『仮名手本忠臣蔵』「六段目」の勘平。「五段目」で花道を引込んできたとき揚幕で倒れ、そのまま病院へ運ばれ勘平の顔のまま絶命したという。まことに和事師らしい終焉だった。

長男が五代目助高屋高助、次男が五代目澤村田之助、三男が八代目宗十郎。

【松井俊諭】

経歴

芸歴

両親については未詳だが、東山本願寺法主の落胤という説がある。幼時は熊谷で過ごし、四代目助高屋高助の養子となる。明治14年11月久松座で四代目澤村源平を名乗り初舞台。明治19年養父の没後は義兄の七代目澤村訥子とともに大阪で修業する。明治26年1月大阪中座で三代目澤村訥升を襲名。明治41年9月歌舞伎座で七代目澤村宗十郎を襲名。明治44年3月帝劇開場に際して六代目尾上梅幸・八代目市川高麗蔵(のち七代目松本幸四郎)らとともにその専属となる。帝劇一座解散後は松竹に復帰。

著書・参考資料

昭和24年『和事師・宗十郎の死』(「幕間」別冊、関逸雄編輯、和敬書店)

舞台写真

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