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阪東 寿三郎 (三代目)

ばんどう じゅうざぶろう
本名阪東与三郎
俳名・舞踊名俳名は菊翠
屋号豊田屋
定紋丸にかたばみ
生没年月日 明治19(1886)年12月10日 ~ 昭和29(1954)年09月24日
出身大阪・島之内

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プロフィール

大阪島の内で生れる。13歳の時上京。浅草の子供芝居に加わり、初代中村吉右衛門とも一座した。成人後、二代目市川左團次一座で修業の後、帰阪してからは、初代中村鴈治郎一座や、實川延若一座で活躍した。大正11年、研究会「第一劇場」を主宰し、新作や翻訳物で大阪劇壇に新風を捲きおこし、中村梅玉、中村魁車(かいしゃ)と共に、「鼎会(かなえかい)」を結成し、上方風の新味のある佳作を見せたが、世は戦時に入ると共に、座付作者郷田悳と組んで、いわゆる勤皇物と呼ばれる作品を次々と主演した。大阪劇壇のニューリーダー、そして上方の左團次といわれた新しい芸風を生かした英雄烈士の役々は、やはり寿三郎の代表役に上げるべきだが、時局劇であったため、戦後は正当な評価が受けられなかった。戦後、實川延若の没後は、名実ともに関西劇壇の頭目となり、東京より移籍してきた市川寿海と「双寿時代」を作った。

立派な体躯と押し出しを生かした時代物、『寺子屋』の松王丸や、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんんき)』「熊谷陣屋」の熊谷直実などを得意とし、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助でも座頭の貫禄をしめしたが、どちらかというと由良之助よりは内蔵助だと言われたほど、新歌舞伎でよりよい腕を見せた。『大石最後の一日』の大石内蔵助や『堀川波の鼓』(近松門左衛門原作)の小倉彦九郎は他の追随を許さず、男を泣かせる役者であった。

しかし、寿三郎の本領は、和実の役々、辛抱立役にあった。『伊賀越道中双六』「沼津」の呉服屋十兵衛、『心中宵庚申』の八百屋半兵衛、『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』の帯屋長右衛門等々に、前代の上方歌舞伎の芸に、一刷毛近代味を加え、巧拙を超え、真実の肚のある役を作り上げた。むしろ和(やわら)か味に特徴のあった芸風を思う時、その活躍期が戦争と重なったのは、やはり悲劇だったと言わざるを得ない。

昭和29年、名実共に歌舞伎役者として大成せんとするとき、天は齢を貸さなかったけれど、関西歌舞伎の代表者として最後を飾った実力は高く評価されるべきである。

【奈河彰輔】

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経歴

芸歴:

二代目阪東寿三郎の次男として生まれる。明治24年4月角座で阪東長次郎を名乗り『都紅朝日彩』の子役で初舞台。少年期に二代目實川延若とともに上京して浅草の子供芝居に出演、初代中村吉右衛門とも一座した。成人後は二代目市川左團次一座で修業、その後帰阪し初代中村鴈治郎や二代目延若の一座で活躍する。大正元年11月浪花座『桜吹雪』の織田信行、『熊谷陣屋』の堤軍次で三代目阪東寿三郎を襲名。大正11年研究会「第一劇場」を主宰。昭和8年四代目中村福助(高砂屋、のち三代目中村梅玉)、初代中村魁車と「鼎会」を結成。昭和9年松竹映画『元禄忠臣蔵』の大石内蔵助で映画初出演、その後も数回映画に出演している。戦中は郷田悳の勤王劇で主役をつとめるかたわら、古典の大役にも積極的に挑戦。戦後は三代目市川寿海と「双寿時代」を築き上げる活躍を見せた。昭和29年関西歌舞伎俳優協会結成と同時に会長に就任。

受賞:

昭和27年大阪府芸術賞。昭和29年日本芸術院賞。

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舞台写真 (写真をクリックすると拡大画像をご覧いただけます)

  • 『妹背山婦女庭訓』吉野川
    三代目阪東寿三郎【大判事清澄】
  • 『伊賀越道中双六』沼津
    (左)二代目實川延若【雲助平作】、(右)三代目阪東寿三郎【呉服屋重兵衛】

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