松本 幸四郎 (7代目) マツモト コウシロウ

本名
藤間金太郎
俳名・舞踊名
俳名は白鸚、舞踊名は三代目藤間勘右衛門(のち初代藤間勘斎)
屋号
高麗屋
定紋
四つ花菱
生没年月日
明治3(1870)年05月12日〜昭和24(1949)年01月27日
出身
三重県員弁郡東員町

プロフィール

当たり役の随一は『勧進帳』の弁慶。生涯を通じて1600余回も演じ、最後に弁慶を務めたのは昭和21年6月の東京劇場で、77歳のときだった。今日、『勧進帳』が年に2度、3度と上演されることの珍しくないほどの人気狂言になったのも七代目幸四郎の功績といえよう。

立派なマスク、豊かな声量、みごとな押出しを武器にした堂々たる芸風が特長で、ほかに定評の役は『大森彦七』をはじめ、荒事では歌舞伎十八番の『暫』『矢の根』や『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』の和藤内、『菅原伝授手習鑑』「車引」の梅王丸など、師匠九代目市川團十郎譲りの役々。舞踊では『関の扉』の関兵衛、『素襖落』の太郎冠者、『吉野山』の忠信など、ワキで『茨木』『戻橋』の渡辺綱、世話がかったもので『毛剃』、新作史劇で『名和長年』(幸田露伴作)などがあげられる。

若いときには歌劇『露営の夢』に主演したり、『不如帰(ほととぎす)』や『乳姉妹(ちきょうだい)』を新派と競演したり、バレエやパントマイムにも出演、帝国劇場専属時代は現代劇で女優と共演もしている。進取の気性は、次男を初代中村吉右衛門、三男を六代目尾上菊五郎のもとへ預けて修行させる教育方針となってあらわれた。すなわち次男が五代目市川染五郎、のちの八代目幸四郎(初代白鸚)であり、三男が二代目尾上松緑である。そして長男が市川宗家の養子になった九代目市川海老蔵、のちの十一代目團十郎であった。それぞれが戦後の歌舞伎界の支柱となり、娘婿の七代目大谷友右衛門、のちの四代目中村雀右衛門とともに大活躍したことを思うと、先見の明の意義は限りなく大きい。

養父が舞踊の家元だっただけに、この分野でも有数の権威者だった。養父の没後は三代目藤間勘右衛門を名のり、長く斯界で健闘、晩年は三男松緑に家元を譲り、自分は藤間勘斎を名のっている。

人格者として劇界の内外から敬愛され、後継者にも恵まれ、幸せな晩年だったといえる。最後の舞台は、昭和23年12月新橋演舞場における『天一坊』の大岡越前守と『野崎村』の久作だった。

【松井俊諭】

経歴

芸歴

三重県の土建業秦専治の子だが、二代目藤間勘右衛門の養子として舞踊を修業。明治13年九代目市川團十郎の門弟となる。明治14年7月市川金太郎の名で本郷春木座(後の本郷座)『暁駈嫩軍記』(『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の組討と陣屋)の敦盛と義経で初めて舞台を踏み、同年10月春木座『近江源氏先陣館』の小四郎で正式に初舞台。明治22 年3月桐座(新富座)で四代目市川染五郎を襲名。明治36年5月歌舞伎座『素襖落』の太郎冠者で八代目市川高麗蔵を襲名。明治44年3月から六代目尾上梅幸・七代目澤村宗十郎らとともに帝国劇場専属となり、同年11月帝劇の『碁盤忠信』(右田寅彦改訂)で七代目松本幸四郎を襲名。昭和4年帝劇が松竹の経営になるにともなって、松竹に加わることになった。長男は十一代目團十郎、二男は初代松本白鸚(八代目幸四郎)、三男は二代目尾上松緑。娘婿に四代目中村雀右衛門。

受賞

昭和22年日本芸術院会員。

著書・参考資料

昭和12年『琴松芸談 松のみどり』(松本幸四郎著、井口政治編、法木書店)、昭和23年『芸談 一世一代』(松本幸四郎著、右文社)、昭和24年『松本幸四郎追悼号』(「幕間」別冊、関逸雄編輯、和敬書店)、平成28年『弁慶役者七代目幸四郎』(小谷野敦著、青土社)

舞台写真