中村 源左衞門 (2代目) ナカムラ ゲンザエモン

本名
森長練磨
屋号
中村屋
定紋
角切銀杏
生没年月日
昭和9(1934)年04月11日〜平成18(2006)年10月20日
出身
鳥取県

プロフィール

平成19年3月9日、フジテレビで放映された『日本中が泣いた!笑った!中村勘三郎襲名公演』は、いうまでもなく十八代目勘三郎の華やかな襲名の行事を記録したルポ番組だったが、当人及びその息子たちの多彩な活躍ぶりのほか、門弟・二代目中村源左衞門が襲名行事の半ばにして無念の死をとげた経緯をも克明に描いて視聴者に感銘を与えた。番組のサブタイトルに“泣いた”と記されたのは、彼の悲愴な最期の模様を示したものである。

十七代目勘三郎に入門したのは20歳のとき。中村仲助を名のっていた名題下時代は、同輩の中村仲三郎(のち七代目四郎五郎)とともに駕籠かきの役などを務めていたが、真摯な取組みかたは誰しも認めるところだった。額の広い個性的な素顔から、師匠勘三郎が“デコ”と綽名で呼びながらも可愛がっていたことは、名題昇進のときに五代目山左衛門、次に四代目助五郎と、いずれも中村屋に由緒ある名を与えたことでも推察できる。昭和50年6月、当時歌舞伎座で恒例だった萬屋錦之介公演の演目の1つ『泥棒と若殿』(山本周五郎原作、矢田弥八脚色、観世栄夫演出)で泥棒の役を、予定された二代目市川子團次が初日前から負傷したため、急遽起用されて務めた。異例の抜擢として話題になったが、中村賀津雄(現・嘉葎雄)の若殿を相手に堂々と演じきり、大いに男をあげている。

師の没後は、もちろん息・五代目勘九郎(十八代目勘三郎)を助け、『夏祭』の義平次、『四谷怪談』の宅悦などの大役も務め、一門の脇役として欠かせない存在になった。そして十八代目勘三郎襲名と同時に初代中村歌右衛門の師匠の名だったという源左衞門を襲ぐことになったのだが、そのころから食道ガンに冒されていた。全国をめぐる襲名披露は2年間続いたが、途中休演のやむなきに至り、当人は掉尾を飾る京都南座公演には復帰するつもりでいたが、悲願叶わず、勘三郎一家愁嘆のうちに他界したのである。

酒好きだった。先述のテレビ番組には、病床を見舞った勘三郎が、末期の彼のため、泣きながら酒をふくませてやる姿が映し出されていた。

【松井俊諭】

経歴

芸歴

小芝居に4年間在籍した後、十七代目中村勘三郎に入門、昭和30年3月明治座『檻(おり)』の酔っぱらいで中村仲助を名乗り初舞台。昭和39年7月歌舞伎座『偲草姿錦絵』の成田五郎房元ほかで五代目中村山左衛門と改名、名題昇進。昭和51年4月歌舞伎座『鈴ヶ森』の駕屋と『弥栄芝居賑』の太鼓持で四代目中村助五郎(屋号仙石屋)と改名。昭和54年4月伝統歌舞伎保存会会員の第5次認定を受ける。平成17年3月歌舞伎座『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』の八剣勘解由で二代目中村源左衞門を襲名。

受賞

昭和42年9月『加賀見山再岩藤(かがみやまごにちのいわふじ)』の中間戸田平・捕手岡山蔵人で、52年6月『本朝廿四孝』の猟師戸助で国立劇場特別賞。46年9月『東海道四谷怪談』の医者尾扇で、59年10月『曾我綉俠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)』の門弟荒波喜六太と奥女中立浪で国立劇場奨励賞。平成7年12月『将軍江戸を去る』の富山源七と『野崎村』の駕舁で歌舞伎座賞。10年日本俳優協会賞。同年眞山青果賞奨励賞。他に関西で歌舞伎を育てる会(現 関西・歌舞伎を愛する会)奨励賞を2回。第8回眞山青果賞技能賞。第9回こんぴら歌舞伎三穂津さくら賞。

舞台写真

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