坂東 吉弥 (2代目) バンドウ キチヤ

本名
本間敏夫
屋号
大和屋
定紋
三ツ大、かつみ
生没年月日
昭和12(1937)年06月21日〜平成16(2004)年04月23日
出身
京都府

プロフィール

昭和27年、伯父・六代目坂東簑助(後の八代目坂東三津五郎)の預かりで、初舞台を踏む。当時関西歌舞伎の若手の勉強会「松竹演劇塾」では、座頭(ざがしら)格で『彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)』「毛谷村」の六助、『実盛物語』の斉藤実盛、『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の松王丸、『鎌倉三代記』の佐々木高綱、『梶原平三誉石切』の梶原平三等の大役で気を吐いたが、関西歌舞伎衰退の気配を察したのだろうか、昭和33年、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』「熊谷陣屋」の熊谷直実を最後に、映像の世界に転進する。後に東映に入社するが、こと志と違うことも多く、悶々の日を過ごしたと聞く。昭和37年、伯父の八代目三津五郎襲名を機に東京の歌舞伎に復帰する。しかし、どの一門にも属さないフリーの立場であったし、吉弥の技量を知る俳優から声がかかる機会が多くなり、歌舞伎以外の大劇場の商業演劇に出ることが、活躍の主体になった。「東映歌舞伎」「(初代)中村錦之助公演」「大川橋蔵公演」などに常連となり、主役をしっかり支える脇役者として、重宝され、引っ張りだこになった。

歌舞伎では、三代目市川猿之助(現・猿翁)一座に加わることが多く、「スーパー歌舞伎」では独特の個性をひらめかせた。平成に入った頃から、歌舞伎でも重用されるようになってきた。最初は新作(かきもの)、すなわち『一本刀土俵入』の掘り下げ根吉、『瞼の母』の素盲の金五郎、『荒川の佐吉』の成川郷右衛門などが好評を得た。その後は、歌舞伎界に腕の立つ脇役者が払底してきたゆえもあり、主な脇役が、殆ど回ってくるようになった。『一谷嫩軍記』の梶原景時や平山武者所、『梶原平三誉石切』の六郎太夫なども、十分にこなした。時代物ではやや古典味が薄いとも言われたが、世話物では個性が出て面白い役作りを見せる。江戸狂言の『切られ与三』の蝙蝠安も結構だったが、上方の世話狂言では、さらに生彩を放つ。『心中天網島』の太兵衛、『新版色読販』の源右衛門、『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』「帯屋」儀兵衛、『時雨(しぐれ)の炬燵(こたつ)』の五左衛門、『土屋主税(つちやちから)』の宝井其角と落合其月、『宿無団七時雨傘』の高市数右衛門等々、一手に引き受けた。先輩の八代目嵐吉三郎、五代目嵐璃珏、初代中村松若の役どころをすべて引き継いだといってよかろう。三代目中村鴈治郎(四代目坂田藤十郎)の「近松座」にも度々参加し、『傾城阿波の鳴門』の扇谷了空、『冥途の飛脚』の勝木孫右衛門、『曾根崎心中』の油屋九平次などで存在感をみせた。自分の周りにはなくてはならぬ人と信頼した鴈治郎の誘いを受け、成駒屋の一門に加わった。平成16年3月、片岡仁左衛門の『義経千本桜』「鮨屋」で弥左衛門を演じ、翌月、大阪松竹座の浪花花形歌舞伎で『心中天網島』の孫右衛門を演じる予定だったが、体調を崩して休演し、鴈治郎が代役した。大変残念がっていたと聞いていたのだが、その興行中の4月23日、急逝した。まだ66歳。上方歌舞伎にとって、埋めようのない大きな損失であった。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

父は初代坂東好太郎、母は女優の飯塚敏子。昭和27年8月大阪歌舞伎座『仮名手本忠臣蔵』討入の浪士で坂東吉弥を名乗り初舞台。同年関西歌舞伎へ。昭和33年テレビヘ移り昭和35年東映入社。昭和37年9月歌舞伎復帰。昭和44年名題適任証取得。昭和47年5月伝統歌舞伎保存会会員の第2次認定を受ける。弟に現・坂東彌十郎がいる。

受賞

平成5年4月『浮世塚比翼稲妻』の石塚玄蕃で、平成8年3月『女殺油地獄』の河内屋徳兵衛で国立劇場賞優秀賞。平成5年9月『室町御所』の笛を吹く男、『夏祭浪花鑑』の三河屋三河屋義平次、『紅葉狩』の腰元岩橋で歌舞伎座賞。

著書・参考資料

平成6年『坂東吉弥舞台年譜』第1集(坂東吉弥監修、紙谷次市編[私家版])