市川 猿三郎 (初代) イチカワ エンザブロウ

本名
上林千里
屋号
澤瀉屋
定紋
澤瀉
生没年月日
明治40(1907)年10月08日〜平成8(1996)年05月19日
出身
東京

プロフィール

二代目市川猿之助(後の初代猿翁)主演の『怪談蚊喰鳥(かくいどり)』の雇い婆おろくは、昭和24年7月東京劇場の初演以来持ち役としていた。『四谷怪談』の後家お弓、『黒塚』の大和坊、『独道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』の丹波与惣兵衛、『瞼の母』の銭を乞う老婆、『黒手組曲輪達引(くるわのたてひき)』の遣り手お辰あたりがニンの役どころ。『仮名手本忠臣蔵』三段目の伴内、『絵本太功記』十段目の加藤正清、現・市川段四郎主宰の青樹会での『夏祭浪花鑑』の三婦(さぶ)などで底力を発揮した。自身の土台としては女方であろうが、立役も、また花柳古登(初代猿翁の母)にみっちり仕込まれた踊りも達者で、芸域の広い実力派であった。昭和16年に三代目段四郎の急な代役で『二人三番叟』を勤め、「澤瀉屋さんはいい弟子を持ったね」と褒められたというエピソードがある。

二代目猿之助はもちろん、「踊りの神様」と言われた七代目坂東三津五郎の『草摺引』の朝比奈に後見を務めた経験もあるほどで、「後見をさせたら日本一」といわれた名手。初代猿翁の芸に関しては生き字引的存在。細かくノートに記録し、またよく覚えていたので、三代目猿之助(現・猿翁)、現・段四郎をはじめ後輩たちが頼りとした師匠番であった。三代目猿之助襲名披露の『黒塚』や、初代猿翁・段四郎の一周忌に発表した「猿之助十種」(後に「猿翁十種」)でも、三代目猿之助が見て覚えていた初代猿翁の芸に補足する形でこと細かく伝授し、後見も務めた。『武悪(ぶあく)』の復曲に際しても、猿三郎が覚えていた昔の仕抜きの振りが大いに参考になった。後見の技でも後進の指導に熱心で、三代目猿之助の後見は三代目市川松尾(後に廃業)、市川寿猿に、現・段四郎の後見は市川段之に引き継がれている。終生本所吾妻橋に住み、下町っ子の潔さと、明治生まれの芯の強さを兼ね備えていた人で、背筋を伸ばした美しい姿勢、身軽な足取りで、白い服を好んで着たこともあって、いつも若々しかった。平成2年10月歌舞伎座『金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)』の手下林太を演じたあと晩年は舞台に出られず、6年後、88歳で没した。

【金森和子】

経歴

芸歴

大正7年に四代目市川市十郎に入門し、その年の11月公園劇場で市川小太郎を名乗り初舞台。その後二代目市川猿之助(初代猿翁)に入門し、昭和4年4月歌舞伎座『頼家と政子』の御台付きの侍女で、市川猿三郎と改名。昭和25年6月、東京浅草のスミダ劇場で、市川喜太郎(のち三代目市川松尾)、二代目市川升太郎(のち二代目市川段猿)らとともに猿之助劇団の名題、名題下で結成した「さつき座」を旗揚げ。昭和28年まで6回ほどの公演をもち、古典歌舞伎と、真山青果や岡本綺堂などの新歌舞伎を上演した。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。二代目市川猿之助(初代猿翁)、三代目市川段四郎、そして三代目猿之助(現・猿翁)と澤瀉屋3代に仕える。

受賞

昭和61年記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に指定。昭和63年第25回俳優祭にて日本俳優協会より功労者表彰。昭和63年勲五等双光旭日章。平成元年7月澤瀉屋3代にわたる舞台への永年の貢献に対して歌舞伎座松竹社長賞。

舞台写真