坂東 市太郎 (2代目) バンドウ イチタロウ

本名
磯部太郎 (磯辺とする資料あり)
屋号
橘屋
定紋
三ツ抱合せ橘、枝橘、車独鈷に市の字
生没年月日
明治31(1898)年08月01日〜昭和49(1974)年09月10日
出身
東京・本所

プロフィール

祖父は有名な法学博士で弁護士だった磯部四郎。父も弁護士から政界に出て代議士になった磯部尚。そんな家庭に生まれながら役者を志望し、生涯のほとんどを中芝居と巡業で通した。戦争の激しくなるころまで寿座などに出演、戦後は沢村もみじという女役者一座にお師匠番として別看板で同座し、全国を旅していたが、大歌舞伎に復帰してからは十七代目中村勘三郎の一門に属し、芸達者な脇役として活躍した。ここでも若手の補導役を務め、五代目澤村訥升(九代目宗十郎)の『弁天小僧』で番頭与九郎(昭和38年12月東横ホール)、四代目中村米吉(現・歌六)の『石切梶原』で呑助(昭和45年7月歌舞伎座「杉の子会」)などで老練なところを見せていた。

【松井俊諭】

経歴

芸歴

明治44年3月歌舞伎座『春雨傘』の禿(かむろ)で坂東市太郎を名乗り初舞台。大正7年7月歌舞伎座『玉菊燈篭』の幇間で名題昇進。大正9年松竹を退社して宮戸座、大国座、寿座、開盛座、末広座、公園劇場、観音劇場などへ出演。戦後は巡業のみ。昭和36年に松竹復帰。