中村 歌江 (初代) ナカムラ ウタエ

本名
中山幸男
屋号
成駒屋
定紋
祗園守
生没年月日
昭和7(1932)年06月08日〜平成28(2016)年03月26日
出身
東京

プロフィール

歌江についての一番古い記憶といえば、師の六代目中村歌右衛門が『籠釣瓶』の八ツ橋をしているその後ろに居並んでいる傾城や芸者の役だろうか。きちんと役の行儀を守って座っているのだが、おのずからなる存在感に、いつしか歌江という名前と共に存在を認識することになった。次に思い出すのは、やはり歌右衛門が『娘道成寺』などを踊るときに後見をつとめる姿である。歌江の前には、初代加賀屋鶴助の名後見ぶりが知られていた。その後を引き継いだのだったが、鶴助という人がひと際小柄であったことも、大柄な歌江としては苦労も苦心もひとしおのものがあったと思われるが、いつしか師と形影相添うが如くしっくりとして、大柄なことなど全く気にならない名後見ぶりを見せるようになった。

研究会「葉月会」を例年8月に国立劇場で開催したのは1982(昭和57)年から1998(平成10)年へかけ17回に及ぶ息の長い仕事だったが、上演の機会のない黙阿弥物などの復活に取り組んだのが貴重だった。『妲己のお百』、『高橋お傳』などの毒婦もの、とりわけ初代松本白鸚門下の初代松本幸右衛門と組んでの『敷島物語』は、かつて三代目澤村田之助が演じたという伝説的名作を彷彿させる傑作だった。歌舞伎史に残る特筆に値する業績と言える。

そうした一方、恒例となっていた俳優祭では歌江の隠し芸が大人気の名物だった。歌右衛門や十七代目中村勘三郎といった当代の名だたる名優たちの声色を使い、仕種の癖を形態模写するのが絶妙だった。巧みな物真似には、おのずから一種の批評性が伴うわけだが、大御所連も笑って許していたのだから、つまり天下御免の隠し芸であったわけだろう。

歌右衛門が亡くなったのは今世紀第1年のことだが、その頃には歌江も、年配・芸歴ともベテランの域に達し、脇役の要衝の一角を占めて舞台を引き締める存在として重用された。『河内山』の「質見世」の上州屋の後家おまき、『髪結新三』の白子屋の後家お常、時代物では『毛谷村』の後家お幸など、家柄の出の女方もつとめるような役である。同年輩の二代目中村吉之丞と共に、こうした役をつとめる姿はまことに良きものとしていまも目に残る。何の狂言だったか、この2人が芸者姿で舞台を横切っただけで、俄然、大人の芝居になったのが思い出される。

【上村以和於】

経歴

芸歴

昭和26年六代目中村歌右衛門に入門し、10月大阪・歌舞伎座『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』角力場の見物人で中村歌次を名のり初舞台。32年7月歌舞伎座『鏡山』の左枝ほかで二代目加賀屋歌江を襲名し、名題昇進。47年5月伝統歌舞伎保存会会員の第2次認定を受ける。平成8年4月歌舞伎座『河内山』の後家おまきほかで初代中村歌江と改名し、幹部昇進。

受賞

昭和53年8月『合邦』の玉手御前ほかで、平成13年6月『双蝶々曲輪日記』の母お幸で国立劇場優秀賞。平成9年眞山青果賞助演賞。平成20年文化庁長官表彰。同年10月『大老』の老女雲之井で国立劇場特別賞。平成25年第19回日本俳優協会賞特別賞。

舞台写真

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