尾上 梅朝 (4代目) オノエ バイチョウ

本名
千代田宗次郎
屋号
音羽屋
定紋
葉付三ツ梅、重ね扇に朝
生没年月日
明治25(1892)年07月01日〜昭和40(1965)年03月26日
出身
東京

プロフィール

初舞台の1年後に師である五代目尾上菊五郎を失い、その後は、五代目の養子・六代目尾上梅幸の門下となる。六代目梅幸が帝劇で活躍したのに伴って帝劇で育ち、昭和9年11月8日に六代目梅幸が歿するまではずっとその側近にあった。梅幸歿後は六代目菊五郎、菊五郎の歿後は七代目尾上梅幸に仕えた。女形専門の優で、『雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)』の「大口寮」では、新造の千代春・千代鶴を初代坂東羽三郎とのコンビで持ち役にしていた。とにかく十五代目市村羽左衛門・六代目梅幸の時代からこの役を演じていたので、手に入っていて自信をもっていたという。ほかに得意とした役としては、『一本刀土俵入』の酌婦にもやはり羽三郎とのコンビでよく出ていて、宿場女郎の役どころを面白くとらえて個性的に演じていた。そのほかにも『助六由縁(ゆかりの)江戸桜』の傾城、『紅葉狩』の侍女、『鏡獅子』の奥女中、『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』の「源氏店」の下女およし、『碁太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)』の新造宮里など、脇としてはトップクラスで大事なところを任されていた。背がとても高く、もちゃっとしたような独特な言い回しに特徴があった。師匠の六代目梅幸が演じた演技や演出を克明に覚えていたので、『助六』の揚巻、『与話情浮名横櫛』のお富などを後継者となった七代目梅幸にこと細かく教えたのを始め、多くの女形に六代目梅幸の型を伝承した功績は大きい。大変な物知りで、女形芸の生き字引と言われ、頼りとされた師匠番であった。幕内では本名から「千代田さん」と呼ばれて親しまれていた。晩年は体調を崩して、舞台には出られなかった。

【金森和子】

経歴

芸歴

明治35年1月歌舞伎座『本朝廿四孝』狐火の狐で尾上鐘次郎を名乗り初舞台。五代目尾上菊五郎に入門し、師が明治36年2月18日に歿したあと、翌37年3月歌舞伎座で五代目尾上栄三郎から襲名した六代目尾上梅幸の門下となる。大正5年4月帝劇『八笑人』の女たちの一人で尾上梅三郎と改名。昭和4年6月帝劇『越後の伝吉』(額田六福作)の娘おろくで四代目尾上梅朝を襲名、名題昇進。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。

受賞

昭和33年第10回毎日演劇賞特別賞。昭和39年3月記録作成等の措置を講ずべき無形文化財(歌舞伎演技の型)に選択される。

舞台写真

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