市村 羽左衛門 (17代目) イチムラ ウザエモン

本名
坂東衞
俳名・舞踊名
俳名は可江、舞踊名は藤間善蔵
屋号
橘屋
定紋
根上り橘、渦巻
生没年月日
大正5(1916)年07月11日〜平成13(2001)年07月08日
出身
東京

プロフィール

父・六代目坂東彦三郎が、たいてい兄の六代目尾上菊五郎と同座していたので、自然、幼時から菊五郎の膝下で育った。幼名三代目坂東亀三郎から七代目坂東薪水を襲名したのが祖父・五代目菊五郎33回忌の追善興行。四代目尾上丑之助改め三代目尾上菊之助(七代目梅幸)、松本豊改め二代目尾上松緑との同時襲名で、それからも長くこの2人と行動を共にすることになる。

七代目彦三郎時代に記念すべき出来事は、昭和24年3月、大阪歌舞伎座に出演中、松緑が急病になり、その持ち役だった『勧進帳』の弁慶と『土蜘』の代役を命じられたとき。突然のことで大変な難行だったが、無事務め上げ、叔父菊五郎に激賞された。芸に厳しい六代目には滅多にないことなので、当人にとっては生涯忘れられない思い出になったのだ。

同年の7月には六代目が没し、菊五郎劇団結成、彦三郎もその幹部の1人という運びになる。当時、劇団には立役として松緑のほか、人気絶頂の九代目市川海老蔵(十一代目團十郎)が客分に迎えられて活躍したため、主要な演目ではどうしてもワキに廻ることが多かったが、常に破綻のない演技で舞台を引きしめた。律儀で堅実な芸風がぴたりと役柄に嵌まって、そのころ傑作とされたのが『天下茶屋』の弥助である。

十六代目市村羽左衛門の夭逝にともない、市村家と坂東家の親戚関係から、十七代目羽左衛門を襲名するが、辛抱立役を本領とする地味な芸域は変ることもなく、とくに大きな発展はなかったといってよい。しかし、高齢近くになると、『賀の祝』の白太夫や『鬼一法眼』『黄門記』の主人公など、重厚な老け役で滋味に富んだ演技を見せるようになる。世話物でも『三人吉三』の土左衛門伝吉や『鼠小僧』の与惣兵衛など、幕末のよどんだ空気の中に生きる老人の苦渋をみごとに描いている。

特筆されるのは、『勧進帳』の弁慶や『暫』、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の熊谷、『御所桜』の弁慶などを80近くなってから演じたこと。これら荒事や時代物の大立役は、肉体的にも老優には骨の折れる役だったが、後進には見られない格調の高い演技で晩年を飾ったのである。平成 13年3月新橋演舞場『忠臣蔵』の石堂右馬之丞を務め、翌4月大阪松竹座の十代目坂東三津五郎襲名披露興行に『口上』だけ出演、これが最後の舞台になった。

鳴物に詳しかったのは親ゆずり。その他、芝居には博識で、よく後進の指導に当たった。人柄は明朗闊達、スポーツマンタイプで、若いときからゴルフと野球を趣味にしていた。

【松井俊諭】

経歴

芸歴

大正10年10月帝劇『名月八幡祭』の鶴吉で三代目坂東亀三郎を名乗り初舞台。昭和10年3月歌舞伎座『音羽嶽だんまり』の奴伊達平で七代目坂東薪水を襲名、名題昇進。昭和17年3月歌舞伎座『双面』の押戻しで七代目坂東彦三郎を襲名。昭和30年10月歌舞伎座『石切梶原』の梶原景時で十七代目市村羽左衛門を襲名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。同年訪欧歌舞伎参加。昭和54年1月訪中歌舞伎参加。昭和62年6月訪ソ(現・ロシア)歌舞伎参加。昭和63年9月訪韓歌舞伎参加。平成9年9月外国人のための歌舞伎教室の歌舞伎台湾公演参加。長男は現・坂東楽善、次男は現・市村萬次郎、三男は現・河原崎権十郎。

受賞

昭和53年紫綬褒章。昭和58年第40回芸術院賞。昭和62年4月『元禄忠臣蔵』新井勘解由・堀内伝右衛門で松竹社長賞。昭和63年勲四等旭日小授章。平成元年5月歌舞伎座『摂州合邦辻』合邦で松竹社長賞。平成2年重要無形文化財保持者(人間国宝)指定。平成3年日本芸術院会員。平成8年6月歌舞伎座『逆櫓』重忠、『楊貴妃』(夢枕獏作)方士で松竹会長賞。平成11年5月六代目中村歌右衛門の名誉会長就任に伴い日本俳優協会会長に就任。平成11年11月文化功労者に選出される。

著書・参考資料

昭和58年『十七代市村羽左衛門聞書―歌舞伎の小道具と演技』(佐貫百合人編、日本放送出版協会)など。

舞台写真