片岡 芦燕 (6代目) カタオカ ロエン

本名
片岡大輔
俳名・舞踊名
舞踊名は藤間藤彦
屋号
松嶋屋
定紋
七ツ割丸に二引、銀杏鶴
生没年月日
大正15(1926)年11月15日〜平成23(2011)年12月25日
出身
大阪府

プロフィール

 全体に地味な印象を受けるが、堅実な演技でさまざまな役柄をこなす貴重な役者だった。ただ全身から発する役者のオーラ、華やかさ、こってりした味が薄かったのが惜しまれる。

 十二代目片岡仁左衛門の三男。長兄が女形の十三代目片岡我童(十四代目片岡仁左衛門追贈)、次兄は公家姿が似合う二代目市村吉五郎。三男でも名門の御曹司である。時流に乗れれば主役として重用され、華やかな道を歩めたはずなのに、戦後すぐに父の十二代目仁左衛門が不慮の死を遂げたことが気の毒だった。この時点で若き芦燕(当時は片岡大輔)は後盾を失い、スター街道まっしぐらという御曹司の道が遠のいてしまった。

 我童や八代目澤村訥子、三代目中村時蔵、六代目市川寿美蔵時代の市川寿海、九代目市川海老蔵時代の十一代目市川團十郎、尾上菊五郎劇団などを転々とした。昭和24年には、日本舞踊家を目指して藤間藤子のもとで修業したこともある。かつて十一代目團十郎の指導で『熊谷陣屋』の熊谷直実や『毛抜』の粂寺弾正を演じるチャンスがあった。門戸が開かれながら一度限りで終わってしまったのが残念である。

 役者として重用され始めたのは、年輩俳優が少なかった三代目市川猿之助(現・猿翁)の一座に身を寄せてからである。『荒川の佐吉』の鍾馗の仁兵衛は、最高の当たり役と言えるだろう。飛ぶ鳥落とすような傲慢な親分が、いかさま博奕に手を出したため、片手を斬り落とされる。娘の産んだ目の不自由な赤ん坊を抱く落ちぶれた姿に人間の運命の変転と悲哀感が漂った。『義経千本桜』「四の切」の川連法眼も風格があり、持ち役になった。『奥州安達原』「袖萩祭文」の傔仗直方、『ヤマトタケル』の国造とカナメの役を演じて存在感を示した。そのまま猿之助一座にいれば重鎮として歌舞伎界の地位も上がったと思うが、一座を離れて一匹狼の道を選んだ。

 『勧進帳』の常陸坊海尊、『傾城反魂香』「吃又」の土佐将監、『仮名手本忠臣蔵』の斧九太夫、『寺子屋』の春藤玄蕃、『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』の八剣勘解由、『河内山と直侍』の北村大膳、『奥州安達原』の傔仗、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の平山武者所、『源氏店』の蝙蝠安、『一本刀土俵入』の波一里儀十、最後の舞台は『二條城の清正』の浅野幸長と多くの役々の中で、独特の風貌からか敵役ややくざ役に目立つものがあった。イメージが固定した感じがするが、逆に『一本刀土俵入』の清大工になんとも言えぬ風情が感じられた。『河内山と直侍』の按摩丈賀など情のある老人役がニンに合っていたのではないかとも思う。

【横溝幸子】

経歴

芸歴

十二代目片岡仁左衛門の三男。兄に十三代目片岡我童(十四代目仁左衛門追贈)、二代目市村吉五郎がいる。昭和9年6月歌舞伎座『安中草三』の倅(せがれ)で片岡大輔を名のり初舞台。昭和34年10月歌舞伎座『黒手組助六』の徳之助ほかで六代目片岡芦燕を襲名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。

受賞

平成4年9月『恋女房染分手綱』の本田弥三左衛門、『一本刀土俵入』の清大工、『桐一葉』の大野道軒、『三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう)』の閻魔大王で歌舞伎座賞。平成7年9月『與話情浮名横櫛』の赤間源左衛門、『源平布引滝』実盛物語の百姓九郎助、『若き日の信長』の林佐渡守、『鏡獅子』の家老渋井五左衛門で松竹会長賞。平成9年眞山青果賞特別功労賞。

舞台写真

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