1994年8月、日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」をご紹介いたします。
(1)「お坊ちゃん」 父母の愛たっぷりと
<辛抱実り、今日々舞台の幸せ>
私の歩んできた人生は実に不思議です。こどものころは蝶よ花よで育てられて、わがまま放題でした。お坊ちゃんの典型で、世のなかのことは何ひとつ知りません。現代のお子さんのように利発でもなく、きわめて原始的なこどもでした。そうやって育ってまいりましたのが、一転して軍隊に放り込まれました。六年も外地にいて本当だったら死んでいたかもしれないのに、どうにか助かることができました。
ところが日本に戻ってきましたら、すでに父は死んでいて兄もおらず、母ひとり子ひとりで途方に暮れました。この先どうしていいかわからないというときに、女形になったらと示唆されて、今でいえは宇宙旅行に飛び出すくらいの覚悟で立役から女形に転向しました。しかしそれもつかの間、今度はほんのアルバイトのつもりで出演した映画が大ヒットしてしまい、おかげで歌舞伎に戻れなくなってしまうのです。
こどものころから芝居が好きで、歌舞伎役者としての人生以外ほとんど考えたことがないという私です。そのような信念とはうらはらに、なんと回り道の多い半生だったかと思います。今こうして朝から晩まで歌舞伎のことを考え、日々舞台をつとめさせていただく幸せを思うと、これまで長々と辛抱した甲斐があったなとしみじみ感じます。あの時もしも死んでいたら、あの時もしもあきらめていたらと考えますと、たいへん恐ろしいような気がいたします。
私は大正九年八月二十日、東京で生まれました。本名を青木清治と申します。当初は上野の黒門町に住んでいたはずですが、私が気づいたころには御徒町のほうに移っておりまして、今ではちょっと考えられないほどの広い屋敷でした。母屋のほかに離れがあって、池があって、家の前には人力車が二台並んでおりました。家族は父、母、祖母、兄、私の五人で、そのほかに婆やがいて、お手伝いさんが四、五人いました。それだけ人がいても家のなかは広々としており、むしろ閑散とした風さえありました。こどものころの私は年中、その屋敷のなかを駆け回っていたものです。
父・八重太郎は家柄もなく、一介の門弟の身分からたいへんな苦労のすえに大名題までのぼりつめた人でした。下回り役者、中村鷺助の子として東京・浅草に生まれまして、幼少より成駒屋(四代目中村芝翫)さんの門に入りました。六歳のとき、中村翫兵衛を名乗って浅草座で初舞台を踏み、中村おもちゃ、駒助、東蔵を経て、立役として次第に周囲に認められるようになりました。大正九年四月、三十三歳の時に、六代目大谷友右衛門を襲名しております。
私はそのあとに生まれましたから、父の厳しい下積み時代を知りません。御徒町の屋敷にしても、あれだけのものを父は自分の力で苦労して築きあげたわけですけれど、昔のことを口にすることはめったにありませんでした。苦労が表に出ないタイプというのか非常におうような人で、こどもに対しても常に温厚な態度を崩しませんでした。
父は芝居のことでもそれ以外の日常のことでも、私をしかったことはほとんどありません。それでは母はどうかといいますと、実は母にも厳しくしかられたような記憶がないのです。父と母はふたりそろって私を溺愛(できあい)しておりまして、そのかわいがり方は並大抵のものではありませんでした。そういったわけで私はやんちゃなお坊ちゃんに育ちました。
※写真 幼年時代の筆者(御徒町の屋敷の2階で)
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