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歌舞伎座百三十年「壽初春大歌舞伎」「二月大歌舞伎」取材会が行われました


 平成30年1月・2月歌舞伎座公演で、松本幸四郎が二代目松本白鸚を、市川染五郎が十代目松本幸四郎を、松本金太郎が八代目市川染五郎を襲名します。
 今から37年前の昭和56年10月・11月、歌舞伎座で行われた“高麗屋三代襲名”が次の世代へと受け継がれ、現代の歌舞伎座にて再現!来年は、歌舞伎座の開場より130年目という記念の年、高麗屋の新たな門出と共に、歌舞伎界にとって二重の慶事を初春から祝います。松本幸四郎、市川染五郎、松本金太郎の三人が襲名に向けての思いを披露しました。

【松本幸四郎】
  37年振りに三代襲名が再び、歌舞伎座130年という年にできますことは誠に感無量でございます。36年間、幸四郎として皆様方にお世話になって参りましたが、11月25日に幸四郎としての最後の舞台を勤めさせていただきました。私は白鸚になりますけれども、本当に長い間、幸四郎としてありがとうございました。また、立派に跡を継いでくれる息子と孫がおりますので、どうかこれからの二人の新しい幸四郎、染五郎をご贔屓くださいますようお願いいたします。

 松本白鸚という名前は父(初代松本白鸚)の名前です。父の名前を二代目として継ぐことになりまして、幸四郎という名前と別れを告げることよりも、二代目松本白鸚としてやるべきことがたくさんあるように思います。感傷に浸っている間もなく、来年の襲名に向けて歩み出しているという感じです。俳優の世界は競争社会でございますから、今度は松本白鸚として競争の世界で自分を磨いて勉強、精進をしていくという気持ちでいっぱいでございます。

 襲名発表後、毎月毎月の勤める役、出演する舞台が幸四郎として最後なのだと感慨深いものがありました。けれど、あまり幸四郎という名前と別れることへの寂しさというようなものはございません。むしろ、幸四郎時代の36年間、いろいろなお仕事をさせていただいて、歌舞伎ばかりではない現代劇、ミュージカルなど一つひとつのお仕事でお世話になった方々との思い出ばかりが残っております。

 襲名披露の役にはそれぞれに思い出がありますが、2月の夜の部で『仮名手本忠臣蔵 七段目』をさせていただきますが、これはちょうど37年前の三代襲名の時に父が新幸四郎と一緒にやりました。それを今度は自分が孫と一緒に出来るということは、いろいろな思いが巡って参ります。まるで亡き父からの贈り物のような気がしています。九代目幸四郎として先輩から受け継いできた歌舞伎というものを、伝統芸能としての歌舞伎として、そしてもう一つ演劇として、お芝居として歌舞伎を、36年の間考え続けてきたように思います。そういう意味で『寺子屋』というお芝居はとても演劇的な場面です。『菅原伝授手習鑑』の中でも『車引』と違って演劇的要素の多い場面で、幸四郎襲名の時と同じ松王を今度の襲名でもさせていただきます。何度かさせてはいただいておりますが、それを、もう一つこなれて皆様にお見せしたいと思います。セリフを変えるとか、形を変えるということではなくて、前の通りにやってはいるけれども何か白鸚の松王は違うなと、良くなっているなと思っていただける、感じていただける松王を演じられればと思います。

 歌舞伎は伝統とか継承とか言われますが、私は“芸”というものはその人一代で終わりだと考えています。矛盾しているかもしれませんが、その人の芸というものは、その人が死んだ時にもうそれで終わりなんだと思います。十代目幸四郎は私とはまた違いますから、彼が忠実に私の通りにやっても違うものになると思うし、それで良いと思っております。芸は一代でおしまいで、それから後に続くものが自分達で努力して精進して、自分の芸を創っていく、それが歌舞伎の継承というものだと思います。


【市川染五郎】
 来年1月、歌舞伎座130年という意義ある年の初めのお正月公演で、父が二代目として松本白鸚を、私が十代目として松本幸四郎を、倅が八代目として市川染五郎を襲名させていただくという、三代同時襲名興行としてさせていただく運びと相成りました。今までやってまいりましたことを信じて、これからも同じく邁進してまいりたいと思います。まず、そのスタートとして歌舞伎座での襲名披露興行がございます。

 襲名披露の狂言として、まずは『車引』の松王と『勧進帳』の弁慶を勤めさせていただきます。勤めるにあたっては、高麗屋の十代目である松本幸四郎として松王を勤めるべくして勤める人間である、弁慶を勤めるべき役者である、という風に自分に暗示をかけるように、プレッシャーをかけるのでしょうか、そういう気持ちを意識して勤めさせていただきたいと思います。これだけの襲名狂言の役々で幸四郎を始めさせていただけるということ、こんなに幸せなことはないと思っております。1月の松王、そして弁慶。2月の大蔵卿、熊谷。ここを目指す役者になりたいと思っており、これも一つの覚悟だと思っております。一番高いハードルで始めるという感じでいっぱいですが、それに立ち向かうためには自分がそれを勤めるべき役者である、高麗屋の幸四郎であるということを意識して勤めていきたいと思います。

 昨年の発表からあっという間の一年でした。毎月舞台を勤める、舞台に立ち続けるということが特別なことではなく、その積み重ねで一年があっという間に経ってしまったという感じです。発表の時は自分でも驚くほど感動しました。自分が目指すものに近づいた、認められたという思いもありますが、わずかながらも親孝行ができたかなと思っています。この一年間、いろいろな経験をさせていただき、いろいろな役を勤めさせていただいた(染五郎としての)最後の年が、何か後々意味のあることなのではないかと思います。今はただ、次の舞台、1月2日の初日に向かってやるべきことをやっていこうとする気持ちでおります。

 高麗屋の芸というのは“挑戦する”“挑戦者”というイメージです。自分自身もそうですが、どちらか選択しなければいけない時に、どうなるかわからない方を選択するといいますか、そういう感じがします。高麗屋の代々の方達もそういう生き方をしてきているのかなと、また“挑戦する”“挑戦者”というのは父から続く事ではないかなと思っています。

 父の弁慶を見て育ってきました。ですが、そこには祖父、曾祖父からのものがあって父の弁慶があると思っています。それを私の体を通して皆様にお伝えするというのが、十代目幸四郎の勤める弁慶だと思います。それは何度上演しても同じです。自分なりの・・・ということは一切ありません。父の弁慶に憧れてやってきましたので、憧れたものをその通り体現するということが弁慶を勤める時の気持ちです。


【松本金太郎】
 来年の1月、八代目として市川染五郎を襲名させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。襲名をしたから完全に染五郎になるというわけではなく、そこからがスタートだと思って、いつか完成した染五郎をお見せできるように、勉強と経験を積んでいきたいと思います。

 去年の発表の時はあまり実感がありませんでした。今年一年、襲名に向けていろいろと準備を進めてきた中で、自分が襲名するという実感も涌いてきました。それと同時に、実感が責任とか覚悟みたいなものに変わってきたような感じがします。

 1月も2月も高麗屋に縁のあるお役です。特に2月の『七段目』の大星力弥は、父が染五郎を襲名した時と同じ役ですので、ご縁みたいなものを感じます。